今週は平穏な感じだなあ。12月になり、何だか着々と終わっていく。出張で話をするのもあと一回だけだし。
最近「声の形」というコミックを読んでいるのだが、少年マガジンでの連載はもう終わっているそうだ。これが少年誌に連載されていたという事実に少し驚いた。話の内容は、聴覚障害者とそれへのいじめや迫害にまつわるシリアスなもので、今どきの子どもに受ける要素があるのかどうか微妙なところである。実際、マガジン側も、この作品に賞はあげたものの内容が重すぎるということで掲載を見送ったのである。いわゆる幻の作品になるところだったのだ。しかし、その後、ろうあ連盟などとの話し合いなどを経て連載が決定。そしてヒットし、もうすぐ映画にもなるという。
今どきのガキに「見たくないもの」を見せるという意味で、このマンガはひじょうに成功していると言えるだろう。内容的にマンガである必然性はないけれども、子どもに何かを伝えたいということであるならばそれも了解できる。僕としては、「ワンピース」のようなあり方が最もよいとは思うが、これはこれでインパクトがある。
ベタではあるが、主人公となる石田将也の存在はマンガの核である。彼は小学校時代には、他人の気持ちも何もわからないいじめっ子だった。転校生である耳の聞こえない西宮硝子を悪質にいじめ抜き、彼女を転校に追いやった。しかし、その報いを受けることになり、仲間からクラスから完全にはぶかれることになる。小学校のその後、中学と、孤立していた石田は、高校になって再び西宮硝子とまみえることになる。あの頃の贖罪のために石田は必死になって彼女とかかわろうとしていくが・・・。
というのが、あらすじなのだが、この石田が、いじめる側といじめられる側、その両方を経験しているというのが、ベタな設定とはいえ、鍵となる点だと思われる。
私は昔いじめられたことがあるから、いじめられる人の気持ちがわかるとか、不登校だったからその気持ちがわかるとかいう場合にちょっとした不全感を僕は感じていた。だからカウンセラーになりたいなどという人もいるので、それには特にである。何かがそこには欠けている。やや厳しい言い方だが、そこでもまた片寄った見方しか生まれないのではないか。いじめということでは、いじめる側の視点といじめられる側の視点の両方を持つほうが、よりいじめの本質に迫ること、理解することにつながるのではないかと思う。
こうした理解のしかたを進めるために、心理劇(サイコドラマ)ではダブルという方法を使う。心理劇の主役となる人物は、主役としての自分を表現していく中で、ときに他の人物に役を移される。そして、その人物から見た自分について何を思い、何を考えるかを語っていく。自分から見た自分、他者から見た自分、その両方をドラマの中で経験していくというこの手法は、私がよく言う「ロールテイキング」ということと強くつながっているものだ。
というわけで、石田少年がどうなっていくのか、どのような認識に至るのか、このマンガが少し興味深いわけである。
マンガにする必然性というのはどういうことかと言うと、絵で表現できるかどうかだ。残念ながらこの描き手にはそうした画力が足りないのでね。
先日の夜遅くだが、ケーブルTVで珍しくもヴィクトル・エリセの「ミツバチのささやき」を放映していたので、ついつい見入ってしまった。もう何回も見たし、エリセのDVDBOXまで持っていた(友人の息子の進学祝いにあげてしまった)のだが、やはり見入る。これはこの作品が映画の中の映画だからだ。映画とは映像である。そして音も加わる。ストーリーではない。
42年前のこの映画は、10年後には「エル・スール」を生み、その10年後には「マルメロの陽光」とつながっていった。エリセは結局10年に1本のペースでしか映画を発表しなかったが、やはりこれ以上の映画はなかなかないなあ。時代は進み、3Dが全盛になったところで、映像表現としての映画はむしろ衰退しているのではないか。先日原節子が亡くなったというニュースがあったが、女優としての原節子はともかく、やはり小津安二郎以上の映画がその後生まれているのかというと、どんなものだろうか。
先週のジャパンカップ。本命対抗が1着、3着。先々週に続いて読みは当たる。が、馬券は、2着のラストインパクトを軽視してしまい3連複だけだった。残念。予想上手の馬券下手。
今度はチャンピオンズカップだな。大本命は⑬ホッコータルマエだが、ひょっとして世代交代が起きるのではないかという思いもある。その筆頭は男馬だけど名が①ノンコノユメ。しかし、府中ならともかく、今度は差し届かないような気がする。まあ、⑬ホッコーから、⑦コパノリッキー、⑭ガンピット、②サウンドトルー、①ノンコノユメへのマルチが安全か。大穴はたぶん逃げそうな⑪コーリンベリーだが、これが3着にでも逃げ残ればいい馬券かもしれない。