今週は衝撃だったな。ニュースを知ったときには若干身体が震えた。
水泳、池江璃花子ちゃんの白血病。最近調子が良くないと思っていたが、こういうことだったんだね。しかし、苛酷だ。伸び盛りもいいとき、しかも来年は東京オリンピックがある。そこで大輪の花を咲かせるのではないかと、誰もが期待していたわけだが。
しかし、これも運命というものか。これには誰も抗えない。いまはただ、病気を完治してもらいたいと願うのみだ。
と思っていたところが、街中のインタビューでは「はやく元気になって、オリンピックでメダルをとってほしい」という声があった。いやあ、そこまで言うか。と思っていたら、今度は五輪相のあれが「がっかり」と言う。頭の中のネジが何本も外れてんだろうね。こういうのを大臣におく政権というのも何だが、野党もこいつの失言を攻めて鬼の首を取ったような気でいるのはいかにもレベルが低い。そんなことよりデータねつ造でしょ、大問題は。厚労省のデータねつ造は、上からの指示があるとの疑いは濃厚だし。政府の出すデータというのは、ほとんどが信用ならないということだろう。先日は内閣府がGDPが伸びたと言ってきた。ほんとかよと思うし、これもタイミングがおかしいね。
五輪相のことだが、どこの世界にもこういうのはいる。昔、僕の業界でもあったな。あるとき学会の大会長が、台風が通過して学会当日には天候が回復するのを「しめたと思いました」と発言した。その台風では被害が相当出たときで、そうした地域からの出席者もたくさんいる前である。そういう人がトップに君臨するのは普通のことか。「心理学者の心知らず」「社会学者の社会知らず」とか、よくいったものだ。その通りだからな。
とにかく、日頃の行いがどうとかに関係なく、不幸は平等に人に訪れる。
問題はそれに対する備えだろう。生きていていろいろな苦しみがあるにしても、それに対して準備をしている人は苦しみに耐えることができる。と誰かが言ってたが、いままで健康上に何の不安もなかった人が突然病気になったりするとひじょうに不安になるようだが、それは準備や想定をしていないからとも言えるだろう。
身近な例で行くと、頭痛を経験したことのない人が頭痛を起こすような場合だ。たとえば僕なんかは小さいときから頭痛持ちだから、いつもどうってことないわけだが(今日の朝も頭痛があった)、未経験の人はなにが起こったのかと思うだろう。その意味では、去年ノロウィルスにやられたとき、これまでにまったく経験しなかった気持ち悪さとめまいだったので、けっこう不安になったものな。でも、サバに当たったときとよく似てはいたので、そういう方面かもしれないとの想定はあった。
自分は絶対にうつ病にななんかならないと豪語していた人が、うつ病ではないけどうつ的になるときも同じだな。それまでイケイケだった自分がそうでなくなるというその落差を受け入れられない。これまでどんなときでもすぐに寝られた人が、寝つけないとなると、よほどのことが起きたのだと思う。
でも、ある程度の年になって、今まで病のひとつもしたことがないとか、落ち込んだりしたことがないというほうが統計的には異常の部類であり、例外的なことなんだよね。
ということで、幸も不幸もすべてひっくるめての人生だということになるんだろう。何ごとも経験というのはそういうことだ。仕事のストレスというのも同じでね。それも仕事のうちだと。
ただ、「人生は山あり谷あり」というように、山や谷ばかりが強調されるのもどうなのかと思って、僕は「人生は山あり谷あり平地あり」と言い換えているのだが。
となると、人生とはゴルフ場のようなものだな。平らなところや上り下り、先が見えないところ、厳しい罰が待っているところ、池や砂地。でもみなやり直しが利くんだよね。失敗や不運を嘆いていてもしようがないわけ。それは当たり前のことだから。